数回に分けてクラブをつくった理由をお伝えしたいと思います。全国高校サッカー選手権大会は下馬評の高かった国見高校を、市立船橋高校が破って終了しました。市船が高校選手権という全国大会に初出場した1回目は選手として、2回目から今回の大会までの14回は、いちOBの雑用係として参加させていただいています。ミーティングを終了して、選手が就寝した後はスタッフと私のような雑用係が部屋に集まりサッカーの話をするのです。6~7年前の大会中、布先生がこのような話をされました。「昔名を成した人は30代前半で亡くなっている。土方歳三・坂本竜馬…。一生は一回だよ。」「一生は一回、自分のレベルで何ができるのだろう。」その時は、漠然と子供たちを取り巻くスポーツ環境を変えてあげられたらなぁーという思いはあったものの、はっきりとした答えは持てずにいました。その年の年度が変わる4月から船橋市内の中学校の選抜メンバー(トレセン)を見ていた私たちは月に数回の練習では駄目だということで、週に3回夜開放ナイターに集めてトレーニングを行うようになりました。毎日16:00~18:30まで中学校の100人の部活動を見た後、週3回は移動して、19:00~21:00まで選抜選手のトレーニングという生活をしました。今の高校3年生の年代です。小学校から上がってきた選手を基本的なことからやり直し、トレーニングを重ね夏に静岡遠征に行きました。私個人としては、週3回というトレーニングで前年度までより遥かに積み上げられる環境をつくれたという思いがありました。しかしながら中学進学時、近隣のクラブチームに20名程度の選手が通い、船橋から出て行ってしまっている現実もありました。その遠征では、大敗という試合結果以上に、同じ中1の選手としてのサッカーに取り組む姿勢と、理解度の違いに愕然としたものです。「船橋に残った中学生の選抜を集めても駄目だ。良かれと思って取り組んでいるトレセンシステムも数名の指導者の頑張りがあって成り立っているだけで長く継続していくのは難しい。部活動のような形ではなく、営利を目的としたクラブでもなく、長く続く組織をしっかりとつくり、船橋を中心に選手の集まれるクラブチームをつくる必要がある。将来的にジュニア年代から集めて携わらないとお話にならない。」大変ショックを受けバスを運転しながら帰ってきた思い出があります。夏の遠征が終わっても自分たちに何ができるのか考え、将来のために小学生対象のサッカースクールを立ち上げることにしました。「ハーフライプ(半熟)船橋サッカースクール」と名づけたサッカースクールは、翌年4月から佐々木コーチと満田コーチの3人で週に4回。月曜木曜を市の西地区で、火曜金曜に市の東地区で行いました。1回500円で自主申告(金銭的に厳しい家庭を考慮して)。はじめは10人にも満たない子供たちでスタートしました。 ① 指導実践の場をつくり、将来のために若い指導者をたくさん育てクラブづくりを視野 に入れたい。 ② 手弁当ではなく会費を集め、指導料を発生させコーチに責任を持たせたい。 ③ 経験したことのないジュニア年代の指導内容の実践を積み上げ蓄積したい。 ④ 子供達にとって普段学ぶことのない体験を通して、成長の足がかりにしてほしい。 この1998年4月に立ち上げたスクールを2年積み上げてコーチを育て、2000年にはクラブチームを立ち上げたいという考えを持っていました。立ち上げまでに2年という時間を設定したのは、船橋中の100人の部員の顧問であったこと。ジュニアの指導実践がなく時間に融通の効くコーチが一人もいなかったことです。当初ナイター代・些少のコーチ代も払えない活動は、口コミで子供たちが少しずつ集まるようになって来ました。経営者ではない私が想いだけで突っ走っていたこともあり、子供が集まれば新たなコーチを確保するということの繰り返しで、やはり運営的には厳しく給料から持ち出しのスクールでした。3月も終わりに近づいた頃、船橋のとあるお店に布監督から呼ばれてこのようなお話をいただきました。「市船としてはこれまで幾つかの結果を残せてきた。これからは市船だけのことではなく、地域のために残していくものをつくっていく力になりたい。クラブをつくりたいと考えているんだろ?俺たちもそのように考えているから力を貸してくれないか。大変な思いをするかもしれないが3年くらいは我慢してくれ。」私32歳!子供たちのため、地域のためのヴィヴァイオ船橋サッカークラブが立ち上がった瞬間でした! (渡辺)