大学を出て小さい頃からの夢だった教師になったのは16年ほど前だった。当時体育の教員に空きが無く初任は千葉市にある肢体不自由児の養護学校だった。頭を丸めやる気満々だった私が直面するのは「虚像と現実のギャップ」だった。私は小さい頃から教師になりたい。教師絶対という思いが強く頭の中で勝手に虚像をつくっていた。現場に出て真っ先に感じたのは「この人達は何で教師をやっているのだろう。」そのようなことがとても多かった。養護学校では重度の障害を持った児童生徒に対して摂食指導(上手に食べられるように補助)が行われている。食事は、その当時から普通食・刻み食・ミキサー食など個にあった形状で用意されていた。私は小学部2年生最重度クラスの担任になり、給食の時間になると毎回胸を締め付けられる思いをしていた。年上のベテラン先生数名が車いすを斜めに傾け、スプーンでどんどん食事を入れていく。時折むせたり、「おぇっ」となったりしながら器に入っている食べ物を減らしていく。だれも何も言わない。当時私が言われていたのは「初任に口なし」という言葉だった。職員会議など根幹に関わることについて1年目の私達は意見をしてはいけないという意味だった。体育大学時代、諸先輩方の時代に比べれば全く持ってたいしたことのない生活だったかもしれないが、門限17時、1日4回の部屋・寮の掃除、先輩への食事のお付き、先輩への風呂のお付き、背中を流し、風呂上がりは汗だくになりながら2時間のマッサージ、寝るのはだいたい先輩たちが遊興に一服するような25時頃夜食のラーメンやアイスコーヒーをつくった後だった。「黒板に集合と書かれれば」廊下の電気を消して正座をして蹴られる。奴隷と言われる1年生には口などあるわけがない。(時代が変わり現在の寮はこのような状態ではありません)そのような生活をしてきたが、よっぽど実社会の方がゆがんでいた。改善しなければいけない現場があるにも関わらず、初任に口なしというのは1年間本当に苦しんだ。職員会議は小・中・高等部・寄宿部・訓練部総勢合わせて150名が集まる大会議になるが例年通りが精一杯で斬新な意見は少ない。会議で意見を言ってはいけないという1年が過ぎて、「どのような形で教職員に全体に伝えるか」悩んだ。「知識と経験がなかった私が、ただおかしいのではという思いだけで言っても全く説得力がない。明らかに諸先輩方が聞いても納得できる情報を持たなければならない。」夏休みに東京都北区にある北トピアで昭和大学が行った摂食指導の研修会に3日間通い、講義と実践のビデオを持って9月の職員会議で提案した。「今現状の摂食指導は児童生徒の身体に良くないと思います。車いすを傾けてどんどん食べさせると気管に食物が入り肺炎をおこす可能性があると教えてもらってきました。このような形で食事をさせては児童生徒の命に関わると言われてきました。ビデオをダビングしてありますので興味のある先生方はご利用下さい。」150人以上いる諸先輩方の前で職員室の机の上にイスを上げ大きなぬいぐるみ傾けて食べさせる真似をした。そして摂食指導の校内研修会が始まった。船橋中学校に移動してきた5月に胃カメラを飲んだ。今でもはっきりと覚えている。「神様は酷だなぁ~。」新しい環境になってもまだまだ勉強しろと言うことか?養護学校や特殊学級は、生徒の人数に応じてチームティーチングといって複数の教員で教える。いつも一緒なのだ。本当に苦しかった。「社会に出たらこのような力が必要だ。」と実社会を知らず教室の中で自分がルールになってしまっている頭の固い教員が活動を決めていた。「知的障害者は社会に出たら6時間立ち仕事ができなければならないのよ。」学校が変わり障害の種類も全く違った環境になり、初めは何も分からずついて行くしかなかった。「休み時間トイレ以外は刺し子。生徒に昼休みもなかった。」「夏に行われるキャンプや卒業テストと称してカレー作りが行われ、給食がなかったこの頃、6月と2月は毎日カレーをつくって食べていた。畑で採れたほうれん草のみそ汁はたくさんの小さな虫が浮いていた。ホッと牛乳と称した温かい牛乳は賞味期限が3ヶ月以上も過ぎて冷蔵庫に入れているものだった。」頭の固い教員の思い通りにならない私が気に入らなかったようでイジメがはじまる。全く違った情報を流され船橋中の特殊学級に来る先生方や関係者がほとんど言って良いほど「私をうがった目で見られた」。市内の特殊学級の中学校の先生方は勿論、小学校の先生方、養護学校の一部の先生方まで冷たい目で見られ距離を置かれていた。完全に孤立していて当時は本当に厳しかった「船橋の特殊学級はこういうものだから」と他地域から来た私の意見が聞かれるどころか、全く例年通りで実社会の変化に対応できていない内容であった。5年間自分なりに頑張ったつもりだった。卒業生を贈り出す時に、チームティーチングであるが為にあまりにもやりたいことができず申し訳ないとみんなの前で我慢しきれず涙を流すこともあった。どのようにしたら変えていけるか。一緒にやっている時は小さな事からしかなかった。御滝中に移り私自身が特殊学級の主任になることができた。チームは現在市船サッカー部のコーチをしている本田先生だった。1年目から持っていたアイデアを実行していった。本田は小学生の頃から知っていて、市船サッカー部時代は同じ釜の飯を食った仲だった。「御滝中から変えていこうと話をした。」当時特殊学級の日課表には教科がほとんど無かった。生活単元学習と作業学習という形から御滝中に国語や数学を入れた。2年目の体育の授業研究で「知的障害者の身体の動きをつくりだす」という私から言わせれば斬新な提案を行った。あまりの反応のなさに「こりゃ無理だ。」と本田と残念がった。4年目、市の教育研究大会で「子供たちにとって良きサポーターであるために私ができること」というテーマで例年改善されない問題点について資料をつくって現状の把握(問題点)・到達点・行き着くまでのビィジョン・実践・検証という発表を行った。毎年1回2人の発表。ベテランの先生ほどアンケート形式の提案が多い。アンケートの発表で具体的な問題点の打開策や今後取り組むべき方向性などない。今年も風の便りにそのような内容だったらしい。私が発表した後、教育委員会の先生2人から講師指導があった。「ベテランの先生方、頭の固い先生方、時代は動いていて新しい発想を持って日々をおくっていかなければ取り残されてしまいますよ。」という言葉をいただいた。私が発表している時にひそひそ話で批判していた頭の固い先生たちの話が止まった。この春15年間の教員生活を辞めた。御滝中に移動して新しい発想での活動は「間違った情報のうがった目」を変えてくれた。養護学校の廊下で「渡辺先生応援しているよ。」とベテランの女性の先生に声をかけられた。当時は距離を置かれていた先生だった。飲み会では小学校の先生がまわりを囲んでくれた。この6月に10名以上の先生が辞めた私を食事会に誘って下さった。通信を出すようになって3年が終わろうとしている。言いたいことの30%くらいしか書くことができない。全国の方が見ていること、チームや個人を攻撃するためのものではないこと等モラルが求められるものであるからだ。もっと具体的に書ければダイレクトに気持ちも伝わり楽だがそういうわけにはいかないので難しい。多くのチームの指導者が見てくれている。見てほしい方が見ていないことも多い。通信には、表に表現されていない伝えたい裏側がある。学のない自分が、言葉を選びながら表現している部分がある。例えば9号、なぜ小さな話を3年生で止めたのか。それは3年生のミニサッカー大会にリンクする。勘違いしすぎているチームの存在を目の当たりにしたのだ。「のびてないなぁ~。」という言葉もそうである。「これを読んでなにくそと、自チームの子供たちの技術を上げる努力をしてくれたら良い。」他のチームの指導者が技術に着目してくれれば、先に行っても楽しめる選手が増えると考えてのことだ。何も考えないで読めば、「何を自惚れたことを」で終わってしまうだろう。8号の「小学校の時は悪くなかったのに。」というのは、「そのような方がいるだろうではない。実際に実在していたのだ。」おかしいことをおかしいということは勇気のいることだ。何も考えない人が読めば、「自分のことだとか、自分のチームのことだとムッとして」終わってしまうであろう。そのような人には何を伝えても、どのように伝えても難しい。これまでも現状をお伝えしてきている。少しでも長くサッカーを楽しむために技術と判断を大切にしてほしい。ジュニア年代で結果を残すことも大切なことの一つだろう。でもジュニアユース・ユース年代でもっともっと楽しめた方が良くないか?私は、市船時代当時勝つためにただひたすら1対1等の対人プレーと頑張るサッカーを実践してきた。残念ながらジュニア年代で技術に着目した指導を受けてこなかったし自分自身も全く気がつかなかった。高校はたまたま全国大会に出場できた。しかし大学に行って初めて楽しむことのできない自分のスタイルに気がつく。千葉県の現状はこれまでもお伝えしてきている。船橋に至っては大人になってサッカーのできるグランドは無い。私が教えてきた船橋中の生徒や船橋トレセンの選手たちは今フットサルを楽しんでいる。狭いエリアでのフットサルは技術があると更に面白い。目の前の大会だけでなく、長いスパンで考えたい。価値観が多様な世の中、多くの情報を流しても感じてくれない方もいらっしゃることはわかっている。少しでも感じていただける方が話題にして下さるだけでよい。このような話は、なかなか目にしないしヴィヴァイオだけで留めておく話ではないと考えている。お父さんコーチにそんなことを考えられるわけがないと言われる方もいるだろう。でも実際に子供たちに携わっているから通信を通してお願いしているのだ。変われない方や知らない方こそ批判するものだ。情報をフラットに聞く耳だけは持っていた方が良い。これまた小さな話だが当時4部リーグ制だった船橋の小学校で私が所属していた行田西小は1部リーグのチャンピオンだった。招待大会やセルジオ越後のサッカー大会のメダルも高校サッカー選手権大会に出場したメダルも段ボールの中にはある。でも今サッカーを楽しむことのできない自分が現実にいる。今夢を持っている多くの子供たちにサッカーを長く楽しんでほしい。自分みたいにならないように、心からそう願っている。 (渡辺)